水源の確保は、人類共通かつ時代を問わず最重要課題です。日本は水資源が豊富だと言われています。確かに海外に目を向けると、1日のうちかなりの割合を水の運搬に費やす地域や、浄化されていない水を使用せざるを得ない地域に暮らす人々もいます。井戸を掘って良質な水が確保できる地域は、実はそんなに多くないのかもしれません。
以前、井戸の修理をした記事を投稿しましたが、井戸は水の確保において極めて有用な手段です。しかし、井戸を掘るためには技術が必要です。場合によっては、多額のお金も必要です。発展途上国に暮らす人々の中には、井戸を掘るお金が無いために幼い命が奪われていることもあります。他方、多額のお金を使って大量に海水を浄化する国も存在します。
日本は、全国どこでも水道水から飲める水が出てくる有難い国です。日本ほどの人口を有した国で、同様の事をやってのける国はありません。高度経済成長期に、インフラ整備として水道事業の法整備と予算の投入を惜しみなくしてくれた先人に感謝しています。
しかし、水道の水を調理や飲用としてそのまま使う国民は、減少傾向にあるようです。健康意識の高まりが要因なのか、企業が水を商品として扱う事が当たり前になったことが要因なのは分かりませんが、消費者はより質の高い水を求めていることに間違いありません。また、限界集落に代表される行政機能の維持困難や人口減少に伴う歳入の減少により、水道インフラの老朽化に対応しきれない自治体が多くなることが見込まれています。こうした動きに呼応して、日本の水道事業も変化の時を迎えているようです。
水道法の一部を改正する法律(平成30年法律第92号)が交付されました。これにより、地方公共団体が水道事業者等としての位置付けを維持しつつ、厚生労働大臣の許可を受けて、水道施設に関する公共施設等運営権を民間事業者に設定できる仕組みを導入されます。
俗にいう、水道の民営化ですね。国民は民営化の都度、辛酸を舐めさせられてきた歴史があります。今回の水道法民営化の動きも注視したいですね。
さて、限界集落での水の確保の実際を知る人は霞が関にどのくらいいるのでしょうか。少し田舎に行けば、水の確保は水道だけではなく、むしろ独自の水源を確保しているケースの方が多いかもしれません。
井戸が掘れば水源の確保がそれなりに期待できますが、場所によっては井戸の水質が適さないことがあります。こうした地域には、どうしても水道が必要です。しかし、質の良い湧水がそこかしこにあり、わざわざ井戸を掘る必要がない地域もあります。こうした地域は山間部の住民の少ない地域に多い印象です。元々ある資源を活用する方法が、水道法の改正の視点に欠けているように思います。
ところで、私は湧水には何となく惹かれるものがあり、湧水と聞くとつい足を運んでいます。自宅近くでも旅先でも、自分の目で見て飲めそうな水があれば口に含み、水の味を訊いています。
水の味は場所によって様々です。地域によって水の質には結構な違いがあります。先日、旅先の日光で、小川沿いに湧水を発見しました。この時も、コップに湧水を汲み取り、味見をして、問題なしとの判断をして美味しくいただきました。また、地元の公園に谷津があり、そこでも自噴する湧水を見つけて味見しました。ここの水は少々喉に引っかかる様なのど越しがあります。微細な砂粒を喉が捉える事が要因だと考え、コーヒーフィルターでろ過することで解消できました。一方で、地元の公園に掘られた浅井戸の水は、鉄バクテリアの活動が活発な為か、飲用できるものではありませんでした。
こうして普段から訊き水をしていると、水の味に敏感になります。水道水でさえも、口に含んだ瞬間に塩素濃度から異物の有無、配管の新旧などの情報が浮かびます。よく水は大事と言われますが、それを五感で理解する人は少ないことでしょう。
また、普段から水に意識を向けていると、いざというときに役立つというメリットもあります。命を繋ぐ水。もしも水道が使えなくなった時は、私の出番かもしれません。
いつものネタですが、縄文時代は1万年以上続きました。当時、水の確保は意外と簡単だったのかもしれません。井戸を掘る技術が普及していた痕跡がありませんから、川か湧水を使っていたという事でしょう。
水道に頼らない、独自の水源の確保を楽しみながら行う時代が来ているのかもしれません。